人種差別という言葉を聞いたときに、あなたは何を思い浮かべますか?
ホロコースト、黒人問題、そして某ウイルスが流行っている今日この頃は、アジア圏の人々も(もちろん自分たちたち日本人も)差別の対象かもしれませんね。
でも、人種差別って何ですか?
当事者が差別されていると感じたら「人種差別」になるのか。
一体、どこからが差別でどこまでが差別ではないのか。
ありがたいことに、人種差別撤廃条約というものにその定義があります。
人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/top.htmlより引用)
なるほどなるほど。この定義に従うなら、自分が一番初めに書いた3つは少なくとも「人種差別」として扱われることになりますね。
そして、差別は様々な争いを引き起こす。現に、引き起こしている。
なぜ差別から争いが生まれるのか
そして、差別という複雑な問題に対して、自分たちは何ができるのか。
適切な答えは出せません。しかし、現時点での自分の考えをまとめてみたいと思います。
犯人探し本能から生まれる感情
当然のことですが差別には「差別を受ける側」(被害者)と「差別をする側」(加害者)が存在します。
今回アメリカで起こってしまった悲しい出来事も、被害者がいて、加害者がいます。
結果を見れば、加害者が悪いと思ってしまうこともあるのではないか。
でも、自分たちがすべきことは犯人探しですか?
「あの人にやられて、ムカついたから」「この人が悪い」
そのような単純な判断をしてしまいがちではないでしょうか。
そして、本当に犯人を探すことが本当に必要なことなのでしょうか。
本当に必要なことを問えるか 自分たちができること
感情は人間特有のもので、時には素晴らしいものを作ります。
その反面、凶器にもなりうる。
複雑な問題には凶器としての感情で解決することはできません。
やるべきことは批判ではなく、「なぜそれが起きてしまったのか」に向き合うことだと思います。
人種差別という問題も、「差別をする人が悪い」などと簡単に片付けることのができない複雑な問題です。
「本当にその行動で解決できるのか」「なぜそれは起きてしまうのか」と問えるかどうか。問い続けられるかどうか。
できなければ、歴史の繰り返し
口で言うのは簡単です。でも言動は思考の表れでもありますよね。
少しずつでも、思考を言動に、言動を行動にしてくべきではないでしょうか。
人種差別という問題に対しての本当に小さな一歩でしかないけれど、合理的な思考一つできる人が増えれば、何かが変わっていくと思います。
でもその小さな一歩を少しずつでも、進めていけたらと思います。