今回は、国際開発分野でのキャリアを志向している学生や若手社会人を支援するための国際開発プランニングコンテストや、国際開発の知見の共有や関係者のネットワーキングのための勉強会iDev Cafeを運営しているidpcの代表の真鍋希代嗣さんにお話を伺いました。
その他にも、イラクでJICAの企画調査員、世界銀行でコンサルタントとして勤務されるなど、国際開発分野で幅広くご活躍されている真鍋さんの国際開発に興味を持ったきっかけやキャリアについて、迫っていきたいと思います。
日本国内の大学で物理学を、大学院の修士課程で国際協力学を専攻後、外資系コンサルティングファームに3年勤務。
その後JICAの経済・社会基礎インフラ整備の専門家(企画調査員)としてイラクで2年間、現地政府の海外投資呼び込みやインフラ整備を支援。留学準備中にベトナムでのラーメン店開業を経て、米国のジョンズホプキンス大学のSAIS(高等国際関係大学院)で二つ目の修士号(国際開発学)を取得。
世界銀行でコンサルタントとして働いた後、現在は外資系戦略コンサルティングファームに勤務。
目次
宇宙誕生の解明から国際開発へ
国際開発業界へのきっかけ
――国際開発に興味を持ったきっかけは何ですか?
大学生のときに開発途上国出身の友達が出来たことです。
学部では物理学を勉強していて、将来は海外で研究したいと思っていました。
なので、長期休暇等を利用して海外に英語を勉強しに行っていたんです。
ニュージーランドの語学学校に通っていた時に中国や東南アジアから来ていたクラスメイトたちと仲良くなりました。
そこで、自分と彼らとの置かれた環境、特に与えられる機会の違いを理解し、問題意識を持つようになりました。
それまでは、自分が行きたかった大学に入学できたのは自分の実力のためだと考えていましたが、教育制度や雇用の安定という国の経済社会基盤なしには実現し得なかったことに気が付きました。
もう一つのきっかけとして、当時自分が研究していた分野に多額のお金がかけられていたことがあります。
素粒子の研究をしており、所属していた研究室が年間予算数千億円規模の大掛かりな国際実験プロジェクトに参加していました。
学部生の自分の研究にも相当なお金がかかっていて、宇宙誕生の解明の役に立つとはいえ、直接社会の役に立つことを目的としていない研究に莫大な予算を投じてよいのか不安を覚えました。
今では基礎研究の意義を理解していますし、必要なものだと感じていますが、当時は気持ちに折り合いがつきませんでした。
物理の研究は知的好奇心を満たすという点では面白い世界でしたが、より直接的に人の役に立つことにお金や自分の人生を使いたいという思いが強くなってゆきました。
国際開発は、困難な立場にある人々のための仕事であり、かつ海外で働きたいという思いも満たせるのではないかと考えたのです。
国際開発の仕事が100%本当にやりたいことなのかは正直いまだに自分でもわかりません。
物理の研究をしていた時は寝食を忘れて没頭できましたが、国際開発の分野でもそうかというとそうでもありません。
ただ、自分にある選択肢の中では社会的な意義が高いと納得できますし、誰にでもできる仕事ではないと思いますので、これまで続けてきています。
ファーストキャリアとしてのコンサル業界
――ファーストキャリアはどのように選びましたか?そこではどのようなお仕事をされていましたか?
学生の時に国際開発の分野でキャリアを積みたいと考えてはいましたが、ファーストキャリアではパブリックセクターではなく、まずは民間の世界で働こうと思っていました。
国際開発に進んだ時にパブリックセクターしか知らないよりは民間セクターも知っていた方が出せる価値が大きいのではないかと。
いろいろな業種を見比べた中で、コンサル業界が一番厳しそうな世界に感じて、修行として行くにはよいかなと思いました。
将来海外で働くことは決めていたので、日本国内での知名度よりも世界的に知られている企業が良いと思い、外資系コンサルティングファームを選びました。
このファームには計3年ほどいましたが、前半は民間セクター、後半は主にパブリックセクターの案件に従事しました。
前半は日本企業の組織再編やオペレーション改善、システム導入などのプロジェクトに携わりました。
後半はパブリックセクターの仕事をしたいと思い、社内ネットワーキングを頑張って、興味のあるプロジェクトを持っているマネージャーに積極的にコンタクトしていました。
パブリックセクターではレポートが成果物であることが多く、高い文章力が求められます。
文章力にはある程度自信があったので、担当マネージャーに自分が学生時代に書いた論文などを見せ、文章力をアピールして希望するプロジェクトに入れてもらいました。
見せたのは素粒子について書いた学部の卒業論文と、スリランカの民族紛争について書いた修士論文でしたが、これらが仕事で役に立つ日が来るとは思ってもいませんでした(笑)。
そこで参加させて頂いたプロジェクトは、具体的には政府系機関と一緒に日本企業の新興国進出を支援するような仕事です。
南アジアやアフリカの現地に行く機会も多く、国際開発を見据えていた中で良い経験をさせてもらえたと思います。
――ロールモデルはいらっしゃいますか?
見習うべき人はたくさんいますが、国際開発に関して言えば、
JICAイラク勤務時の上司として開発のプロフェッショナリズムを教えてくださった原昌平さん
世界銀行で私の上司であり彼にしかできないプロジェクトを世銀で動かされている金平直人さん
必要だと判断したことのためには自らの犠牲も辞さない姿勢を貫かれている世界銀行の松永秀樹さん
世界銀行でエボラ熱緊急対策チームを引っ張られ大活躍された馬渕俊介さん
などは優秀なだけでなく仕事への熱い情熱を持たれていて魅力的な方々です。
馬渕さんは私がコンサルティング業界に興味を持つきっかけをくださった方でもあります。
また、お会いしたことはありませんが、日本人ながらルワンダ中央銀行の総裁として同国の経済復興に貢献した服部正也さんの著書にも感化されました。
イラク駐在からアメリカ留学、ラーメン屋さんまで
JICAでイラク駐在
――イラクでのお仕事を選ばれたきっかけは何ですか?
コンサルで3年程度経験を積み、社会人あるいはコンサルタントとしての基礎が身についてきたと感じる一方、それらとパブリックセクターにおける専門性とに乖離があるとも感じ始めてきて、早く途上国での経験を積みたいという焦りが出てきていました。
途上国の現地で働ける仕事を探していたら、JICAのイラク駐在のポジションを見つけたんです。
仕事も生活も難易度は高いと思いましたが、イラクで働いた経験があればその後どんな仕事にも取り組める自信がつくのではないか、キャリアの幅も広がるのではないかと思い、イラク行きを決めました。
そのような状況でしたので、当時、国際開発でキャリアを積む上では必須ともいえる専門性は特に持ち合わせていませんでした。
ただ、イラクに海外からの民間投資を呼び込むためのプロジェクトでは民間セクターの経験が生きましたし、またJICAの独特の仕事のやり方をいち早く覚えるにはコンサルで培ったキャッチアップ力が大いに生きたと思います。
――イラクではどのような活動をされていましたか?また、どのような経験を積みましたか?
イラクにはJICAの企画調査員として2年間駐在し、イラク政府の経済インフラ整備や海外投資誘致を支援していました。
JICAをはじめとする援助機関には独特の仕事の進め方があります。
例えば、現地政府だけではなく、日本の財務省や外務省とも連携が必要で、手続きが多かったり、一つ一つのプロセスを進めるのに承認が必要だったりします。
自分は一から何かを作るのは得意ですが、そういった手続きを着実に進めていくのは苦手でしたので、その点は苦労しました。
政府系機関は官僚的で進みが遅く、フラストレーションを感じないかと聞かれることがたびたびありますが、巨額な予算と影響力が伴う意思決定を進めるには必要なプロセスであると納得していたので、特に不満は感じませんでした。
イラクで仕事をするのはやはりハードでした。
最初の一年、首都バグダットに滞在していた時は、自宅とオフィスが一緒になった建物からの外出は禁じられ、イラク政府との打ち合わせなどの業務上の理由で外出する際は常に防弾チョッキを着ていました。
二年目はクルド自治区に滞在していたのですが、泊まっているホテルのすぐ傍で自爆テロが起きたこともありました。
爆発直後は逃げるためにとっさにカバンを持とうとしましたが、恐怖で身が震えました。
しかし、そんな中でも、自分たちの危険性よりも、本部から退避を命じられて支援が続けられなくなることを危惧するような熱意ある同僚に囲まれて仕事ができたことは、非常に大きな財産になりました。
私自身も、覚悟を持ってこの地に来たのだから任期は全うしたいという思いは強かったです。
JICA 企画調査員としての活動 (イラク)
国際関係を学ぶためアメリカの大学院へ
――イラク派遣終了後、次のステップとして何をしたいと考えられていましたか?
イラクで仕事をする中で、
「英語力をもっと強化したい」
「援助対象国を取り巻く情勢をマクロ的に捉える経済的な素養を身に着けたい」
と強く感じました。
就職する前からいずれは留学が必要であろうと考えてはいたので、帰国後に出願プロセスを進めました。
志望していた大学院は、入学までに経済学の基礎の勉強を済ませていることが条件でしたので、留学前に国内の大学で3か月間ほど、マクロ経済学やミクロ経済学を勉強しました。
留学には資金計画が重要ですが、自分の場合は幸いにも、イラクで一歩も外出を許されない生活が続いたおかげで貯金が多少できていたのに加え、ロータリー財団、および世界銀行・日本政府共同の奨学金を得ることもでき、資金はなんとかなりました。
――留学中は何を勉強されていましたか?
大学院は、世界銀行や開発業界への進路に強みのあるジョンズホプキンス大学のSAISという国際関係のスクールを選びました。
SAISでは国際開発を専攻し主に計量経済学を勉強しました。
ワシントンDCという立地もあり世界銀行やIMFの関係者とネットワークを広げられたのは良かったです。
大学院では日本とは比較にならないほど勉強させられて、特に語学の面で苦労しました。
経済学の授業などは数式を追いかければある程度理解できましたし、得意の数学を活かせるファイナンスの授業などはクラスメイトを助ける立場になることも多かったです。
他方、「開発とは?」などの抽象的なテーマをネイティブスピーカーたちと英語で議論するのには非常に苦労しました。
あまりに議論についていけず、自分がこの大学に合格したこと自体、大学の判断ミスだったのではないかと疑ったほどです。
他人の議論についていくのは無理だと割り切り、最初から議論をリードできるようアジェンダを準備していくことで徐々にリーダーシップを握れるようになり、クラスへの貢献も高めていくことができるようになりました。
学外の活動としては、ワシントンDC開発フォーラムという任意団体の幹事を務め、国際開発に関する勉強会を世界銀行やJICAの職員の方々と一緒に運営していました。
国際開発業界で活躍されている方々を講師として招き、プレゼンテーションを聞いたり、ディスカッションを行ったりしました。
また、四半期に一回はクラスメイトのみならず現地で勤められている方々を毎回数十人ほど招いてホームパーティを開催しました。
これらの活動を通じて、DCには幅広いネットワークを構築できました。
私が帰国する際の送別会には100名以上の方々にお越しいただき、大変嬉しかったです。
ベトナムでラーメン屋を起業
――ラーメン屋の起業をされていますがそれはなぜでしょうか?また、ラーメン屋はどのように経営されていたのでしょうか?
留学先への出願を終えてから実際に渡米するまでに半年以上の時間が空きました。
その半年間を最大活用する手段として起業することに決めました。
民間セクター開発を専門としていると政府や民間企業へのアドバイザーとして仕事をすることになるのですが、プレイヤーとして経験しないとわからないことも多いのではないかと思い、この半年間を使って起業し、経験値を積もうと考えたのです。
まず起業することを決めて、それから1週間ブレストをしてビジネスアイデアを考えました。
飲食店を選んだ理由の一つは事業の立ち上がりの速さです。
もしこれがB to Bビジネスであれば顧客を探すだけで半年が経ってしまいます。
また飲食業には古典的なビジネスの要素が多く、汎用性の高い学びが得られると考えました。
物を安く仕入れて付加価値をつけて売る、生産管理や在庫管理、マーケティングやオペレーション、人材教育の重要性などの要素です。
飲食の中でもラーメンにしたのは、私の地元の福岡で叔父が製麺所を経営していたこともありラーメン関係者がまわりに多く、それがアドバンテージになると考えたからです。
途上国の民間セクターでの経験を積むという目的から、市場は途上国である必要がありました。
当初は日本人の駐在員を主なターゲットと考えていたので、東南アジアの主要都市を抽出し、日本人の人口や物価水準、開業資金、競合の状況などから市場分析を行い、結果としてホーチミンを選択しました。
現地入りしてからは二カ月ほどで開店に漕ぎ着きました。開店直後はオペレーションに自信がなかったので広告にはお金をかけず、来てくれるお客さん一人一人を丁重にもてなすスタイルにしました。
結果、ベトナムの食べログのようなサイトでラーメン屋の中での評価が一番になりました。
幸いにもラーメン屋は留学直前に買い手が見つかり、半年間で事業の立ち上げからイグジットまでを一通り経験することができました。
この起業の経験から、投資家や経営者としての視点を学ぶことができました。
ベトナムでのラーメン屋の起業
憧れの世界銀行へ
――世界銀行で働かれていますが、世界銀行で働きたいというのは、昔から思われていたのでしょうか?どのようなお仕事をされていたのでしょうか?
学生時代に国際開発に関心を持ったころから、国際機関は選択肢の一つとして漠然と意識はし始めていました。
日本の大学院で開発の勉強をしていたときや、JICAで働いていたときに、世界銀行が発表するガイドラインやペーパーが開発業界でよく参照されているのを知り、開発業界においては世界銀行をリーダー的な存在のように感じてはいました。
世界銀行で私がいたチームは、どうすれば民間セクターがScience Technology and Innovation (STI, 科学技術イノベーション)を通じてSDGsの実現に貢献できるか、というテーマを扱いました。
私の役割は、どのような業種やトピックであればSTIを通じて民間セクターの知見を活用できるのか、様々なデータから分析することでした。
世界銀行の中で仕事を進めるには、データを分析して示すだけでなく、学術的な論文などを引用しながら銀行内のエコノミストを説得できる資料を作る必要があり、理論と実務が相互に絡み合ってコンセプトが形成されていくのに感心するのと同時に、日本の組織との大きな違いも感じました。
オンリーワンを目指して自分の価値を発揮しよう
仕事以外での国際協力活動
――お仕事以外でも国際協力に関係する活動をされていますが、idpcはどのようなきっかけで始められたのでしょうか?
idpcは、年に一回開催する「国際開発プランニングコンテスト」の運営を主な活動とする任意団体のNGOです。
このコンテストは、国際開発の分野でキャリアを築きたい、活躍したいと考えている20代、30代の方々を対象にしており、国際開発の課題について解決策となるプロジェクトを立案し、その質を競い合ってもらうというゲーム形式のトレーニングです。
プロジェクトの検討から発表までの過程で、講師による講義やフィードバックが行われ、国際開発において必要なスキルを体験してもらうことを狙いとしています。
また、講師や参加者同士の縦横のつながりを作ってもらうことも重要な狙いの一つです。
この活動は自分が日本で大学院生をしていた時に始めました。
まだ社会人経験もなかった時期ですが、国際協力に関心はあっても、実際にそれを仕事として実現できない人や、何も行動に移せていない人が多いことに気がつき、彼らのために何かしたいと思ったのがきっかけです。
今思うと、自分自身にも将来、開発を仕事にできるかわからないという不安があり、idpcの活動を通じて何らかの道筋を見つけたかったというのもあったと思います。
idpcを立ち上げたもう一つの理由は、私自身がリーダーシップの経験を積むためでもありました。
当時参加したあるビジネスコンテストで自分はリーダーシップが特に弱いと痛感する機会があり、リーダーシップをどうにか伸ばせないかと考えていました。
本を読んだりもしましたが、リーダー経験を積むのが一番だと思い、組織を立ち上げることを決めました。
どうせなら出来るだけハードルを上げようと考え、立ち上げには友達を誘わず、webでメンバーを一般公募し、連絡を頂いた方々と一人一人面談をして、全員がお互いに初対面という仲間7人で立ち上げました。
idpcを立ち上げた1年目は大変でした。
それまでサークルの幹部等は経験したことがありましたが、大学も学年もバラバラ、さらには社会人もいるというような集団を代表としてまとめることに、それまでにないプレッシャーを強く感じました。
その時は、idpcが主催するイベントに来てくれている参加者によいものを提供すること以前に、idpcの活動に相当な時間を使ってくれている仲間たちが活動に満足しているかということの方が不安でした。
毎週ミーティングをしていましたが、会場として使っていた早稲田大学に向かうときはいつも胃が痛くなっていました(笑)。
当時は組織運営のためにとにかくマネジメントやファシリテーション、組織論などのビジネス書を読んでいて、その時にコンサル業界には様々なノウハウが蓄積されていることを知ったのも、後にコンサル業界を就職先として意識したきっかけの一つです。
リーダーシップを学びたいという当初の目的については、自分なりのリーダーシップの型を見つけられたという成果がありました。
自分は仲間を上からぐいぐい引っ張るというより、下から押してあげるようなリーダーのタイプです。
自分一人で全部をやらずに、上手く人を頼ることでそれぞれのモチベーションをあげるようにしました。
人に動いてもらうには、「自分はこれをやりたいが、あなたにしかこれはできないから是非助けてほしい」と伝えること、そして助けたいと思ってもらえる人であることが大事だと学びました。
辛い時に頑張れたのは、集まってきてくれた人の期待を裏切りたくないという思いが強かったからです。
後から聞いた話ですが、当時の立ち上げメンバーの何人かは途中、コンテストの実現は無理だと思っていたくらい、活動は順調ではありませんでした。
しかし、せっかく集まってくれた仲間に、なんとか活動に参加してよかったと思ってもらいたいという一心で走り続けました。
今振り返ると、idpcの立ち上げは色々な経験ができて、今までで一番成長できた1年間だったと思います。
――現在も続けていらっしゃるのはなぜですか?今後も続けていきたいと思われますか?
実はidpcの運営からは一度手を引いていて、しばらくは後輩らが中心となって運営していました。
2016年のある時、代表を務めていた後輩がidpcを離れることになりましたが、後任が見つからないと相談を受けました。
私も社会人としての生活に余裕が出てきていたのもあって、自分の経験やネットワークを日本にいる若い方々に還元するにはよい機会だと考え、もう一度idpcの代表になりました。
idpcの今後については、規模の拡大を追求するつもりは特にありませんが、コンテストのフィードバックやトレーニングの質をあげることに注力したいとは思っています。
また久しぶりに自分の拠点を日本に戻したので、idpcの新たな活動として国際開発の勉強会であるiDev cafeを新たに立ち上げました。
1,2カ月に一回の頻度で開催していく予定です。
様々なことに挑戦し続ける理由
――なぜ新しいことにどんどんチャレンジできるのですか?
周りからは、転職してイラクに行ったり、仕事を辞めて留学したりしているのはリスクを取っているように見えているのかもしれませんが、自分の中ではむしろリスクを減らすための選択です。
学生時代に、会社のリストラに合って苦労をした人の話を聞いた経験などから、特定の組織に依存して生きるのにはリスクがあると考えるようになり、組織から市場に突然放り出されても生きていけるような実力を備えていたいとは常に思っています。
イラク行きについては、やりたいことがあるのにそれに挑戦せずに人生を終える可能性の方が私には大きなリスクだと考えました。
あとは新しいこと始めるのが好きで向いていると思います。
自分は人と競争して勝ち負けを決めるのが好きではありませんが、何かを新しく作ることには勝ちも負けもありません。
ナンバーワンではなくオンリーワンを目指して自分の価値を発揮しようと、新しいことをつくるのにエネルギーを使うようにしています。
なお、新しいことを始めるには人を巻き込む必要がありますが、その点は過去の成功体験からか自分に巻き込まれた人には楽しいと思ってもらえるという変な自信があります(笑)。
国際開発業界で必要な力
――開発業界に携わる中で必要なスキルは何だと思いますか?
開発業界の中でも分野や職種に応じたハードスキルはそれぞれ必要であることは間違いありませんが、ソフトスキルに関して言えば、人や組織を動かせる力が大切であると思います。
イラクで働いていたときによく直面したのですが、開発のプロジェクトは様々なトラブルでしばしば進捗が止まり、そうした時に現地政府や関係者の誰に、どういう情報を伝えれば組織のボタンが押されて物事が前に進むのか、という事を考えさせられました。
人は論理と感情で動くので、論理的な思考に加えて感覚的なセンスが大切だと思います。
その人がどういう問題意識を持っていて、誰の話であれば聞くのかを見極める観察力が求められます。
語学力も当然ながら重要です。
仕事を不自由なく遂行できるだけでなく、ポリティカルコレクトに表現できるような、高いレベルの言語能力が求められます。
日本に帰国してからはイギリスの経済紙The EconomistのPodcastなどを聞いて語学力を維持するようにしています。
読者へメッセージ
――開発業界を目指す学生・社会人に応援メッセージをお願いします。
若い人たちに伝えたいのは、自分が好きなことを見つけ、それを伸ばすことの大切さです。
自分自身の経験を振り返ってみても、自分が好きなことは、熱中して取り組むうちに気が付いたらそれが強みになり、仕事で役立っている事が多いです。
例えば、私は人と会うのが好きな人ですが、人と沢山会ってきたことで形成してきた人脈は、私のアセットの一つになっています。
一方で、将来役に立ちそうだからやっておこう、という考えで始めたものの多くは実際には中々身につかなかったり、結局使うことがなかったりしました。
「好きこそものの上手なれ」は本当にそうだと思いますし、好きなことを極めることが、キャリアという観点でも重要なのではないでしょうか。
中には自分が好きなこと、熱中できることをまだ見つけられていないという人もいるかもしれません。
無理に見つける必要はないと思いますが、見つけたい、という思いがあるのであれば、まずは色々なことを体験してみることが大切だと思います。
例えば、漠然と途上国に興味があるのであれば、ただ悩むのではなくて、まずは現地に行ってみて、ボランティアでもインターンでもなんでもよいので実際に活動を体験してみて、本当に自分は途上国に興味があるのかを検証する事が大事だと思っています。
できれば経験内容も一つではなく、いくつか異なる体験をした上で、様々な角度から自分のやりたいことを考えてみたらいいと思います。
この記事の監修者
吉田宏輝
COCOCOLOREARTH代表、社会活動家。
COCOCOLOREARTHでは、社会課題解決を軸にした就職・転職活動を支援するインタビューメディアの代表として、100人以上の社会活動家にインタビュー、記事執筆やイベント登壇などを行う。