現役外資系コンサルタントの国際協力記

.イラクでのJICA企画調査員の活動、アメリカの大学院留学、ベトナムでラーメン屋の起業


 ーーーイラクでのお仕事を選ばれたきっかけは何ですか?

コンサルで3年程度経験を積み、社会人あるいはコンサルタントとしての基礎が身についてきたと感じる一方、それらとパブリックセクターにおける専門性とに乖離があるとも感じ始めてきて、早く途上国での経験を積みたいという焦りが出てきていました。

途上国の現地で働ける仕事を探していたら、JICAのイラク駐在のポジションを見つけたんです。

仕事も生活も難易度は高いと思いましたが、イラクで働いた経験があればその後どんな仕事にも取り組める自信がつくのではないか、キャリアの幅も広がるのではないかと思い、イラク行きを決めました。

そのような状況でしたので、当時、国際開発でキャリアを積む上では必須ともいえる専門性は特に持ち合わせていませんでした。

ただ、イラクに海外からの民間投資を呼び込むためのプロジェクトでは民間セクターの経験が生きましたし、またJICAの独特の仕事のやり方をいち早く覚えるにはコンサルで培ったキャッチアップ力が大いに生きたと思います。 

 

 ーーーイラクではどのような活動をされていましたか?また、どのような経験を積みましたか?

イラクにはJICAの企画調査員として2年間駐在し、イラク政府の経済インフラ整備や海外投資誘致を支援していました。

JICAをはじめとする援助機関には独特の仕事の進め方があります。

例えば、現地政府だけではなく、日本の財務省や外務省とも連携が必要で、手続きが多かったり、一つ一つのプロセスを進めるのに承認が必要だったりします。自分は一から何かを作るのは得意ですが、そういった手続きを着実に進めていくのは苦手でしたので、その点は苦労しました。

政府系機関は官僚的で進みが遅く、フラストレーションを感じないかと聞かれることがたびたびありますが、巨額な予算と影響力が伴う意思決定を進めるには必要なプロセスであると納得していたので、特に不満は感じませんでした。

イラクで仕事をするのはやはりハードでした。

最初の一年、首都バグダットに滞在していた時は、自宅とオフィスが一緒になった建物からの外出は禁じられ、イラク政府との打ち合わせなどの業務上の理由で外出する際は常に防弾チョッキを着ていました。

二年目はクルド自治区に滞在していたのですが、泊まっているホテルのすぐ傍で自爆テロが起きたこともありました。
爆発直後は逃げるためにとっさにカバンを持とうとしましたが、恐怖で身が震えました。

しかし、そんな中でも、自分たちの危険性よりも、本部から退避を命じられて支援が続けられなくなることを危惧するような熱意ある同僚に囲まれて仕事ができたことは、非常に大きな財産になりました。

私自身も、覚悟を持ってこの地に来たのだから任期は全うしたいという思いは強かったです。

JICA 企画調査員としての活動 (イラク)

  ーーーイラク派遣終了後、次のステップとして何をしたいと考えられていましたか?

イラクで仕事をする中で、
英語力をもっと強化したい
援助対象国を取り巻く情勢をマクロ的に捉える経済的な素養を身に着けたい
と強く感じました。

就職する前からいずれは留学が必要であろうと考えてはいたので、帰国後に出願プロセスを進めました。

志望していた大学院は、入学までに経済学の基礎の勉強を済ませていることが条件でしたので、留学前に国内の大学で3か月間ほど、マクロ経済学やミクロ経済学を勉強しました。

留学には資金計画が重要ですが、自分の場合は幸いにも、イラクで一歩も外出を許されない生活が続いたおかげで貯金が多少できていたのに加え、ロータリー財団、および世界銀行・日本政府共同の奨学金を得ることもでき、資金はなんとかなりました。

ーーー留学中は何を勉強されていましたか?

大学院は、世界銀行や開発業界への進路に強みのあるジョンズホプキンス大学のSAISという国際関係のスクールを選びました。

SAISでは国際開発を専攻し主に計量経済学を勉強しました。ワシントンDCという立地もあり世界銀行やIMFの関係者とネットワークを広げられたのは良かったです。

大学院では日本とは比較にならないほど勉強させられて、特に語学の面で苦労しました。

経済学の授業などは数式を追いかければある程度理解できましたし、得意の数学を活かせるファイナンスの授業などはクラスメイトを助ける立場になることも多かったです。

他方、「開発とは?」などの抽象的なテーマをネイティブスピーカーたちと英語で議論するのには非常に苦労しました。
あまりに議論についていけず、自分がこの大学に合格したこと自体、大学の判断ミスだったのではないかと疑ったほどです。

他人の議論についていくのは無理だと割り切り、最初から議論をリードできるようアジェンダを準備していくことで徐々にリーダーシップを握れるようになり、クラスへの貢献も高めていくことができるようになりました。

学外の活動としては、ワシントンDC開発フォーラムという任意団体の幹事を務め、国際開発に関する勉強会を世界銀行やJICAの職員の方々と一緒に運営していました。

国際開発業界で活躍されている方々を講師として招き、プレゼンテーションを聞いたり、ディスカッションを行ったりしました。

また、四半期に一回はクラスメイトのみならず現地で勤められている方々を毎回数十人ほど招いてホームパーティを開催しました。これらの活動を通じて、DCには幅広いネットワークを構築できました。

私が帰国する際の送別会には100名以上の方々にお越しいただき、大変嬉しかったです。


ーーーラーメン屋の起業をされていますがそれはなぜでしょうか?また、
ラーメン屋はどのように経営されていたのでしょうか?

留学先への出願を終えてから実際に渡米するまでに半年以上の時間が空きました。
その半年間を最大活用する手段として起業することに決めました。

民間セクター開発を専門としていると政府や民間企業へのアドバイザーとして仕事をすることになるのですが、プレイヤーとして経験しないとわからないことも多いのではないかと思い、この半年間を使って起業し、経験値を積もうと考えたのです。

まず起業することを決めて、それから1週間ブレストをしてビジネスアイデアを考えました。

飲食店を選んだ理由の一つは事業の立ち上がりの速さです。
もしこれがB to Bビジネスであれば顧客を探すだけで半年が経ってしまいます。

また飲食業には古典的なビジネスの要素が多く、汎用性の高い学びが得られると考えました。

物を安く仕入れて付加価値をつけて売る、生産管理や在庫管理、マーケティングやオペレーション、人材教育の重要性などの要素です。

飲食の中でもラーメンにしたのは、私の地元の福岡で叔父が製麺所を経営していたこともありラーメン関係者がまわりに多く、それがアドバンテージになると考えたからです。

途上国の民間セクターでの経験を積むという目的から、市場は途上国である必要がありました。

当初は日本人の駐在員を主なターゲットと考えていたので、東南アジアの主要都市を抽出し、日本人の人口や物価水準、開業資金、競合の状況などから市場分析を行い、結果としてホーチミンを選択しました。

現地入りしてからは二カ月ほどで開店に漕ぎ着きました。開店直後はオペレーションに自信がなかったので広告にはお金をかけず、来てくれるお客さん一人一人を丁重にもてなすスタイルにしました。

結果、ベトナムの食べログのようなサイトでラーメン屋の中での評価が一番になりました。

幸いにもラーメン屋は留学直前に買い手が見つかり、半年間で事業の立ち上げからイグジットまでを一通り経験することができました。

この起業の経験から、投資家や経営者としての視点を学ぶことができました。

ベトナムでのラーメン屋の起業

 

ーーー世界銀行で働かれていますが、世界銀行で働きたいというのは、昔から思われていたのでしょうか?どのようなお仕事をされていたのでしょうか?

学生時代に国際開発に関心を持ったころから、国際機関は選択肢の一つとして漠然と意識はし始めていました。

日本の大学院で開発の勉強をしていたときや、JICAで働いていたときに、世界銀行が発表するガイドラインやペーパーが開発業界でよく参照されているのを知り、開発業界においては世界銀行をリーダー的な存在のように感じてはいました。

世界銀行で私がいたチームは、どうすれば民間セクターがScience Technology and Innovation (STI, 科学技術イノベーション)を通じてSDGsの実現に貢献できるか、というテーマを扱いました。

私の役割は、どのような業種やトピックであればSTIを通じて民間セクターの知見を活用できるのか、様々なデータから分析することでした。

世界銀行の中で仕事を進めるには、データを分析して示すだけでなく、学術的な論文などを引用しながら銀行内のエコノミストを説得できる資料を作る必要があり、理論と実務が相互に絡み合ってコンセプトが形成されていくのに感心するのと同時に、日本の組織との大きな違いも感じました。

 

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