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DVの記憶に蓋をしていた私が、ありのままの自分を受け入れるまで

「マイノリティ」という言葉を、あなたならどう説明するだろうか。

マイノリティは、日本語で少数派という意味。その反対はマジョリティ(多数派)だ。

最近では性的マイノリティという言葉もよく聞かれるが、性別に限らず、障がいや国籍などの「社会的少数派」をまとめてマイノリティと言うことが多い。

あなたは、この世界で自分がマイノリティとマジョリティのどちらに属していると考えているだろうか。

本連載の第一回目として、まずは自己紹介も兼ねて、筆者自身がマイノリティであることを皆さんに伝えたいと思う。

理不尽な社会に対する「憤り」の原点

ーお母さんを守らなきゃ。

物心がついた頃から、ずっとそう思っていた。

小学生の頃、犬の散歩で夜に家を出て行くとき、自分のことよりも家で待つ母のことが心配だった。侵入者に襲われないよう、出かける前に「戸締りをしっかりしてね」と何度も母に伝えていたことを覚えている。

我が家の構成は両親と5人の子どもの7人家族。少子化の流れに逆らう大家族である。

私は末っ子で、5人の中では1番甘やかされて育ってきたと思う。

北海道生まれの父は無鉄砲でダイナミックな人だった。若い頃はバイクで日本中を旅しており、旅の途中で母と出会い結婚した。母はもともと栄養士として働いていたが、ボランティア精神が強く、仕事や家事育児の合間に手話や点字を習っていた。

私は自然や動物に親しむ感性豊かな父のことが好きで、影響を色濃く受けている。幼い頃に家族で山登りやキャンプをしたり、川遊びに連れて行ってもらったりしたこともいい思い出だ。

 

ただひとつ、我が家には問題があった。

両親の喧嘩が絶えなかったことだ。それもただの口喧嘩ばかりではなく、ときどきプロレスのような取っ組み合いに発展した。

私が3歳になった頃から、両親が喧嘩しているときの記憶がある。

まず父と母の口論が始まると、5人の子どもたちが総出で止めに入る。みんなで二人の口をふさげば、モゴモゴと何を言っているのかわからなくなり、笑ってその場がおさまることもあった。

しかし残念ながら、いつもこの方法が通用するわけではない。喧嘩が激しくなると私たちがどれだけ必死で止めても手を振り払われる。口調が強くなって怒鳴り合いに発展し、最終的に父が母に手をあげる。

今でも忘れられない光景は、母が床に倒されて父に蹴られている姿だ。

私は夢中で駆け寄って止めようとしたが、父に軽々と抱き上げられてしまい、悔しくて父の顔をぽかぽかと叩いた。

母を助けられない自分の無力感。

たぶん、これが生まれて初めて抱いた憤りの感情で、成長していく上での「強くなりたい。理不尽な世の中を変えたい」という思いの原点になったのだと思う。

無力な自分が父に対して持つ思いは、弱者が虐げられる理不尽な社会や圧倒的な権力・暴力に対する怒りに通じていたのだろう。

今振り返ると、この怒りの奥には、傷ついていた小さな私の心があった。

 

学生時代に閉ざした心の扉

中学2年生のある日の夜中、父と母が口論していた。

その頃にはもう慣れっこで、口論程度で止めに入ることはなかった。ただその日は夜遅い時間だったこと、「これ以上大きな喧嘩になったら嫌だな」という思いがあって声をかけに行った。

「喧嘩しないで」と伝えられたらよかったのだが、思春期の私は素直になれず、出てきたのは「うるさいんだけど」というぶっきらぼうな言葉。途端に父は「親に向かってどういう口の利き方だ!」と、ものすごい剣幕で私に向かってきた。

母が止める間もなく、突き飛ばされ殴られ、大声で罵られた。

 

次の日、父は何事もなかったかのように「おはよう」と声をかけてきた。

「この人はどういう神経をしているんだろう」と呆れつつ、子どもたちに手をあげることも珍しくはなかったので、「また爆発したなぁ」くらいに思っていた。

学校が終わって帰って来た私に「これ、見て」と母が悲しげに言った。視線の先にあったのは、クリスマスの日に私が母へプレゼントしたジャケット。喧嘩のときに父が吸っていたタバコの火が飛び散ったせいなのか、ハンガーにかけられたライトグレーのジャケットに焦げ穴が付いていた。

これまで我慢してきた気持ちと、大切にしてきたものを踏みにじられた気持ちが一気に押し寄せ、私の中で何かが壊れてしまった。

それから4年間、父とは口をきかなかった。

友人にその問題を話したことはなかった。相談しても何も変わらないと思っていたし、そのときの私は誰かを頼る方法もわからなかったのだ。「笑っていなきゃ、楽しくしていなきゃ」と、自己暗示をかける日々。

高校生になってからは少しずつ居場所ができてきたものの、家では徹底的に父を避けていた。

2人の姉はすでに家を出ていたけれど、私には行く場所がなかった。高校2年生のとき、それまで実家に住んでいた2番目の姉が一人暮らしを始め、ときどき遊びに行くようになり、ついには荷物を抱えて姉の家に転がり込んだ。

それから半年ほど経ち、父がC型肝炎という病気を患って入院した。

母から話を聞いても、大したことはないだろうと思っていた。しばらくして「命が危ない」と言われるまでに悪化した。それでもお見舞いには行かなかった。

ある日、家に来た従姉妹から「今会いに行かなかったら一生後悔するよ!」と説教され、しぶしぶお見舞いに行くことになった。

病院に行くと、小さな部屋でベッドに横たわり点滴につながれている父の姿があった。

病室に入って来た私を見て、「来てくれたの」と弱々しく笑った。

 

「何だよ」と私は思った。

ずっと憎み続けさせてよ、と。なんでそんな情けない姿になってるんだよ、と。

私は自分を保つために、頑なに「父を許さない」と決めていたのだ。その感情に縛られていたのは私の方だった。本当はもうとっくに怒りの感情はなくて、ただ意地を張っていただけだった。

お見舞いに行ったことをきっかけに、鉄のようにがっちりと閉ざしていた心の扉が少しずつ動くようになっていった。母は、姉と私の暮らしを心配して近所に引っ越し、少し経ってから私も両親の住む家に戻った。父は退院後も1年ほど治療を続け、無事に病気は完治した。

父との和解。自分の中にある闇と光

父と和解して何年も経ってから、母が聞かせてくれた話がある。

父が仕事から帰って来たとき、「お兄ちゃんはまだ帰ってない?」と私に聞いた。私は曖昧に「うん」だか「ああ」だか答えた。

それが父にとっては大事件だったようで、母に「安果が返事をしてくれた!」と報告をしたそうだ。「何かの聞き間違えじゃない?」と母が聞くと「いや、確かに返事をした!」と言っていたらしい。

私はそのときのことを全然覚えていなくて、「何それ」と笑ったけれど、父の思いが伝わってきて泣き笑いになってしまった。

私は自分を守るために心を閉ざし、頑なに背を向けてきた。そういう形で父を傷つけてきたのだ。きっと父なりに悩み、葛藤していた。それでもずっと私と向き合うことを諦めないでいてくれた。

 

20歳になったある夜、父の生い立ちや、祖母との関わりを聞かせてもらった。

父には衝動的で強烈な面があったけれど、そうならざるを得ない出来事があったのだった。

私は成長するにつれて、憎んでいたはずの父の一面が自分の中にもあることに気がついた。

特に、誰かを守ろうとするときや理不尽な状況にいるときに「許せない」「相手が間違っている」という思いが止まらない。父と同じ衝動性。それは確かに自分の中にある闇だ。

幼い頃に癖になった「自分を守る方法」が他人との関係にも影響し、私も周りの人を傷つけてきてしまった。ずっとそんな自分を許せなかった。

今はもう父を責める気持ちはない。どんな人にも必ず「そうならざるを得ない」背景があることを知ったから。そして私も今の自分自身になるまでの背景を見つめようと思った。

ちゃんと向き合って、自分を許してあげようと決めた。

自分の弱さを、正面から見つめて受け入れるのは怖い。それでも、そこに蓋をして自分を守ろうとする方が余計にエネルギーのいることだ。

今でも昔のことを思い出すと涙が出るし、幼少期の記憶が深い傷になっていたことに気づかされる。しかしこれまでに出会ってきた人たちや経験のおかげで、自分の弱さと向き合うことができた。

「どんな自分でも大丈夫。失敗だらけでも弱くても、今の自分にできることがある」。

記憶の彼方に押し込めていた父との確執を見つめ直して、ようやく自分を解放することができた。

これまでの後悔を忘れずに、これからは自分が大切な人たちを支えていきたい。

憤りではなく、愛と感謝を動機にして。

マイノリティはオリジナリティ

喧嘩ばかりの環境で育ち、心を閉ざした中学時代、何かを振り切るように遊んだ高校時代。

アルバイト命で自分の世界を広げていった短大時代。そして卒業後から、私の世界はさらに大きく広がった。

ずっと憧れていた世界一周の船旅に参加したり、チャリティイベントに参加したりするうちに信頼し合える仲間が少しずつ増えていった。転職を何度も繰り返し、情熱を注げることを探した。

語学留学やバックパッカー、ボランティア、海外生活も経験した。

あちこちに飛び回ってきた私の人生。

どれだけ探しても、この世界に全く同じ人生を歩んでいる人はどこにもいない。

世界でたった一人、自分だけ。

同じ親から生まれても、双子でも、100%同じ人生なんてない。そう考えると、全ての人がマイノリティと言えるのではないだろうか。

マジョリティに合わせて生きようとしても、本当はみんなたった一人の自分を生きている。

セクシュアリティ、貧困、介護、障がい、国籍、病気、性格特性、不登校、虐待、不妊、引きこもり・・・。現代の社会にはさまざまな悩みや生きづらさを抱えている人が多くいる。

課題は山のようにあるけれど、人それぞれに背景があり、100人いれば100通りの答えがあるはずだ。一人ひとりがデコボコの個性を持っているからこそ、パズルのようにつながって補い合えるのではないだろうか。

だから「幸せの定型」や「立派な自分」を追い求めずに、オリジナリティを尊重して、それぞれが自分らしく生きられる世界が私にとっての理想の未来だ。

世の中には、想像もできないほど大変な境遇でたくましく生きている人たちがたくさんいる。

この連載では、時に嘆き、時に喜びながら、自分の人生を引き受けて豊かに生きる人たちを紹介していこうと思う。

多様なストーリーを通して、どこかの誰かの心に、ほんの少しでも希望の光を灯すことができたらと願っている。

 

YOUR ACTION  

下記の項目について取り組んでみよう。

・自分の幼少期を振り返り、今の考え方にどんな影響を受けているか考えてみよう。

・なぜ社会貢献に興味を持ったのか。そのモチベーションは何だろう?

・あなたが心から幸せを感じる瞬間はどんなときだろう?

 

ライタープロフィール

安果(やすか)
発達障がい児支援士。フリーライター。
過去に保育施設コンサルの営業、マッサージセラピスト、コピーライター、旅行業などを経験。
2011年から国内外の孤児院やNGO団体、戦争跡地、フェアトレードタウンなどを巡る。
海外放浪・就労を経て2021年より地元愛知にUターン。

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